2012年12月9日日曜日

測定すること (2011/9/18)


2011/9/18のコラムです。

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 最近、福島の原発から漏れた放射能の測定結果が新聞をにぎわせています。測定するということは非常に重要なことです。孫子の兵法でいう、「彼を知り己を知る」とはつまり現状を測定するということです。測定結果が間違っていると、次の行動を間違えることになります。現実の測定結果を伴わない議論はすべて机上の空論です。

 測定は物理学の基本です。ガリレオは振り子の周期を、脈を使って測定したと言われています。相対性理論が生まれたきっかけの一つは、光速が測定できるようになったことです。

 物理学の歴史は測定の歴史です。より高精度の測定ができるようになると、既存の理論と測定結果の誤差が分かります。その誤差を説明するには新しい理論が必要です。量子力学では不確定性原理という測定の限界を意味する法則もあります。

 少し前に小柴先生がノーベル物理学賞を取りましたが、これはニュートリノの測定に関する研究に対してのものです。田中耕一さんがノーベル化学賞を取ったのは、タンパク質の質量を測定する装置の開発に対してです。高精度な測定は科学を進歩させるものです。

 脱線しますが、学力テストも測定の一つです。子供の学力を測定するためのものです。でも人間の能力は単純な尺度では測定できません。テストで同じ点を取った子でも、営業トークがうまい子と、観察力がすぐれた子では全然違います。学力を測定することは、教育政策を作るうえで重要なことです。でもペーパーテストだけでは測定できないものもたくさんあります。測定のやり方が適切でないと、次の行動につながりません。

 ところであなたはどれくらい測定を知っているでしょうか? ためしに次の量の測定方法を考えてみてください。

  • 原子の直径
  • 地球から月、太陽までの距距離
  • 宇宙誕生から現在までの時間
  • 月の質量
  • 太陽の温度
  • 台風の風速
  • 落雷の電圧、電流
  • 縄文時代の日本人の人口
  • 日本の輸出総額
  • ・・・

 教科書に数字が出ているものでも、どうやって測定しているかまで書いていないことも多々あります。私はどちらかというと数字より、どうやって測定したかの方が面白いと思います。

名探偵達への回想 (2011/10/16)


2011/10/16のコラムです。

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 思うに私は読書好きな少年だった。江戸川乱歩の怪人二十面相や少年探偵団のシリーズが好きで、小学校の授業中に隠れて読んで先生に怒られたのを覚えている。その時は、怒られていることに気付かないほど熱中して読んでいた。

 古今東西、名探偵と言えばやはりコナン・ドイルのシャーロック・ホームズだろう。彼はあらゆる面で完璧な人間だった。常に沈着冷静であり、すぐれた知識、洞察力、強靭な肉体を持ち合わせていた。ヒーローにあこがれるのは子供の常だが、私にとってのヒーローは間違いなくホームズだった。ホームズは今の私の性格にも多大な影響を残している。

 子供の頃、私が読んでいた江戸川乱歩先生シリーズの名探偵と言えば明智小五郎だ。明智もほぼ完璧な人間だが、明智は優れた常人であり、ホームズは人間離れした超人だった。明智には人間的な感情があったが、ホームズは感情を切り離していた。どちらかと言うと、明智よりも怪人二十面相の方が超人に近いだろう。怪人二十面相の前代未聞、奇奇怪怪な犯罪に、幾人の子供が驚嘆したことだろうか。かく言う私もその一人なのだが。

 アガサ・クリスティのポワロも名探偵の1人だ。ただ誰もいなくなってしまうせいか、私にはあまり思い入れがない。超人であるホームズを知っていた私からすれば、ポワロは普通の人間にしか見えなかったのかもしれない。

 日本の名探偵では横溝正史先生の金田一耕介も忘れてはならない。だが子供にはあまりお薦めしない。人が死にすぎるからだ。「八墓村」を読み進めていくと、次は誰が殺されるだろうかと思わずにはいられない。青少年向けに書かれた乱歩先生の作品では、人が死ぬことは少なかった。横溝先生の書く舞台はオカルトチックで異常な世界であり、そこには少年探偵団が活躍する場はなかった。

 名探偵と言えば怪盗が必要になってくる。怪盗と言えばルパンだが、残念ながらモーリス・リュブランの小説にはホームズほどの知名度がない。ルパンといえば、テレビアニメのルパン三世のイメージがある人が多いのではないだろうか。名探偵に比べて名怪盗の小説が少ないことは実に残念なことだ。

 インターネットで面白い推理小説を探していると、エラリー・クイーンの「Yの悲劇」に行き当たる。「Yの悲劇」はその犯人の意外性から名作の呼び声が高い作品だ。推理小説をいくらでも読める現代人の私にとってはあまり意外な犯人ではなかったが、出版された当時では大変に意外な犯人だったのだと思う。
どちらにしろ推理小説好きなら一読をお薦めする。

 近年の推理小説の中でははS.J.ローザンの「ピアノ・ソナタ」が抜群に優れている。この作品は実に現代的な作品だ。舞台は老人ホームであり、現代社会の影の部分が実に見事に描かれている。それはまるで城山三郎の経済小説のごときリアリティと言える。ホームズや怪人二十面相ばかりを読んでいた私にとって、この現代性は新鮮な驚きだった。これほどまでに現代社会にマッチした推理小説を私は他に知らない。

 ここまでは推理小説の話ばかりだったが、TVドラマにも数々の名探偵が登場する。先日亡くなったピーター・フォーク演じるコロンボも有名な名探偵だった。TVの洋画劇場のコロンボシリーズを、私はいつも楽しみにしていた。犯人は犯罪がばれることに怯えながらも、どこか自分は捕まらないという自信を持っている。しかし最後には犯人も気づかなかった意外なところから犯罪が明らかになる。パターンは決まっていても、最後にはいつも「あぁ、そういうことだったのか」と納得させられた。コロンボ警部はホームズのように完璧な人間ではないが、チャーミングな名探偵だったと思う。

 古畑任三郎も私が好きな探偵の一人だ。毎回、さすがは三谷幸喜先生という脚本の面白さがあった。ある事件で、犯人が惜しげもなく高価な茶碗を割ったことについて言った 「ものの価値とはそういうものですよ」 と言うセリフは非常に印象に残っている。

 以上、私の推理小説に対する思い入れを書いてみた。ちなみに文体はホームズの小説っぽく翻訳風に書いてみたのだが、伝わっただろうか。


本当のことを言えてますか? (2011/7/31)


2011/7/31のコラムです。

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 Tech-Onというサイトをご存知でしょうか? 私のお気に入りのWebサイトの一つです。中でも思索の副作用というコラムはお気に入りです。すでに連載は終わっているみたいですが、バックナンバーは今でも読めます。今回は思索の副作用から "本当のことを言う" という記事についてです。

 "本当のことを言う" というのは簡単そうで難しいことです。あなたは上司、先輩の方針に反対意見を言えるでしょうか? 目をつけられたくないから反対意見を言わない、というのはよくあることです。反対意見も真摯に聞いて、自分の間違いを認める上司は素晴らしい上司です。間違っていたら修正するって当たり前のことなんですが、自分の間違いをなかなか認めない人っていると思います。そういう人に限って間違いを指摘されると怒りだしたりします。相手を怒らせたくないというのが人情なので、とりあえず言わないでおく。そういうことを繰り返しているうちに、本当のことをまったく言えなくなっていたりします。

 本当のことを言わない組織は腐敗するそうです。本当のことを言えないでいるとストレスが溜まります。組織のメンバーにストレスが溜まり続けていたら、組織がダメになるのも当然です。逆に本音で話している組織は見ていて気持ち良いものです。それが分かっていても、本当のことはなかなか言えないのですが。

 ちなみに男性は女性に比べてコミュニケーション能力が低く、他人の話を聞かない傾向があるそうです。話を聞いてもらえないと分かれば、相手は本当のことを言ってくれません。ひどい場合は話してもくれないでしょう。メールなんかでも、男性は書いてあることを、きちんと読んでいない気がします。自分の思い込みで読んでしまって、実はメールに書いてある内容を正しく読めていないというケースです。男性の皆様、気を付けましょう。

 私は前職で、自分が本当のことを言えていないな、と思った時に転職を決めました。上司に、そのやり方は間違っています、それじゃいい製品は作れません、と何度言いたかったことか。最初の頃は言っていたんです。もちろんオブラートに包んでですが。そのうち気づきました。この上司は私の言うことを聞いていない、聞いているふりをして結局自分のやり方を押し付けている、言っても無駄なんだ、って。始めは自分が間違っているから、聞いてもらえないのかと思いました。後で私の方が正しかったと分かると、すごく落ち込みました。いつしか私は本当のことを言えなくなっていました。だって何を言っても聞いてもらえないのだから。私の意見は必要じゃないんだって思いました。愚痴っぽくなってしまいました。すみません。

 本当のことを言うのは大切なことです。大切なんですが、実践するのはなかなか難しいです。まずは周囲の人が私に本当のことを言ってもらえるよう努力したいです。他人の話を正しく聞く、反対意見も真摯に受け止める、これが大事です。


人が本当に怒るとき (2011/4/10)


2011/4/10のコラムです。

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 私は怒りっぽい人間ではないつもりですが、そんな私でも本気で怒ったことがあります。自分が怒っていることに気づいたときは我ながら驚きました。

 どんな人でも本気を否定されると怒るものだと思います。逆に言えば、怒らないようなら本気でないということです。これは、子供が一生懸命作った工作を誰かに馬鹿にされたときに怒るのと同じ原理です。大人だろうが子供だろうが一生懸命にやったことを否定されたら怒ります。私も本気でやっていた仕事を軽視された時は、はらわたが煮えくり返る思いでした。怒りを抑えきれないんじゃないかと恐くなったくらいです。

 物事に本気で取り組むというのは、悪いことではないと思いますが、弊害もあります。本気の人は集中しすぎて冷静さを失うことがあります。たとえ正しい意見であっても聞こえなくなってしまうという状態です。そういう時は、間違いを指摘しても怒りだすだけなので困りものです。どんなに本気で取り組んでいても、時に客観的に自分を省みる、そういうふうに心がけたいものです。

 人が本気になっている対象は様々です。仕事に本気の人もいるだろうし、趣味に本気の人もいると思います。中には悪事に本気の人もいるかもしれません。うっかりその人のプライドを傷つけて、怒らせないようにしたいものです。

 まぁ世の中にはわけもなく怒って周りに当り散らす迷惑人もいるみたいですが・・・・・・。

片付けの基本法則 (2011/05/29)


2011/5/29に書いたコラムです。

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 今回は片付けの基本法則についての話です。もちろん私が勝手に考えている理論です。

 片付けの基本法則とは、
「物がなければ片付けは必要ない」
というものです。
部屋の中に何もなければ片付けることはできません。物があるから片付けないといけないのです。

 部屋を片付いた状態にしておきたかったら、余計な物を捨てましょう。すべて捨ててしまえば必ず片付きます(^o^)。
 さすがにすべて捨てるのはムリですが、できるだけ無駄な物は捨ててしまうのが部屋を片付けるためには有効です。空間を分割して考えて見ましょう。物のない場所は片付ける必要がありません。片付けなければならないのは物のある空間です。つまり物が少なければ少ないほど、楽に片付けることができます。逆に物が沢山あれば日々片付けに忙殺されることになります。

 パソコンの中のデータについても同じことが言えます。データが少なければ少ないほど整理しやすいです。まあ、データに関しては、大容量のHDDを買ってくれば保存場所には困らないのですが、今度はデータを探すのに困ります。データ量はできるだけ小さいことが望ましいです。

 ちなみに私はあまり片付けが得意な人間ではないです。でも部屋はそこそこ片付いています。というより片付けに忙殺されたくないので、物を持たないようにしています。できるだけ捨てるようにしています。物を減らせば片付くということを意識しているだけですが、そこそこ効果的です。

 ところで厳密には「片付ける」ということを定義しないと理論は不完全です。片付けるとは部屋のエントロピーを下げること、部屋のエントロピーの定義とは・・・面倒なことになりそうなので、細かいことは気にしないでください。

のど自慢予選会


NHKのど自慢の予選会を見学してきました。本選は抽選ですが、予選は自由に観覧できるらしいです。興味本位で見に行ったらとても面白かったです。

舞台には背景のセットが用意されており、ピアノ、ドラム、ギターの演奏も生でした。観客が少ないことを除けば8割方本番という印象です。

一番驚かされたのはNHKのスタッフさんです。特に予選の司会進行をしている方が素晴らしかったです。30代くらいのお兄さんが、曲のテンポに合わせて、観客の手拍子を見事にリードしていました。満面の笑みで、手だけでなく、足も挙げて体全体で観客席を盛り上げる様には感激しました。音楽好きらしく、参加者の歌に合わせてノリノリだったりするところが素敵です。

参加者にはいろいろな方がいました。セミプロっぽい人もちらほら。そういう方は、舞台衣装で登場して、やたら慣れた動きで歌っていました(たぶん本番に出られない人もいるだろうに。)。お決まりの手作り感あふれる衣装で登場するグループもいました。二人組で裏でハーモニーの練習をしている方々もいました。

本選は20組だけですが、その裏では250組が予選通過を目指して頑張っています。なんとなくですが、歌っている人のレベルは高かった気がします。本選は面白い人を入れているから、必ずしもうまい人が出ているわけではないのだと思います。そういう意味ではまさに"のど自慢"が見られた感じでした。

予選の曲順は50音順のようでした。本選のゲストが森進一さんだったので"襟裳岬"や"おふくろさん"が4回くらい連続で歌われてました。同じ曲だから優劣がすぐ分かっちゃって、歌ってる方も少し気まずかったり。本選に同じ曲で出ることはないんだから、もっと別の曲にすればいいのに、と思ったり。

出場者にはいろいろな人がいるので、どういう人かを想像するのも楽しかったです。この人は学校の先生かな? とか、最近結婚されたのかな? とか、そしてもちろん、この人いくつなんだろうっていう方も3~4人いました。

本選はテレビやラジオでいつもやっていますが、予選を見る機会はいままでありませんでした。のど自慢の舞台裏が見られて、実に面白かったです。



The Art Of War (2011/7/17)


2011/7/17に書いたコラムです。少し加筆しています。

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巷ではドラッカーのマネジメントが流行っていますが、私は孫子の兵法の方が好きです。武田信玄も曹操もナポレオンも孫子の兵法を学んでいたと言われています。二千年以上もの間、失われずに伝えられてきたその内容は、含蓄に富んでいます。

孫子の兵法は、春秋時代の兵法家、孫武が著したものとされています。孫子の兵法の良さはその内容が論理的、合理的、実践的であるということです。その論理はまるでシャーロック・ホームズの推理を思わせます。その内容を私なりに少し紹介してみます。

そもそも戦争とは国の存亡をかけた重大事項です。戦争に負ければ大きな損害を被ります。よって勝てる見込みがなければ戦ってはなりません。現代の経営学に当てはめると、営業なら勝てないコンペはやらない、開発なら成功しない開発はやらないということです。失敗すれば損するだけです。勝てる見込みがあるから戦うのです。

勝敗の見込みを知るには、相手をよく知り、自分をよく知るということです。自分にとって有利な点、不利な点を総合的に鑑みて、戦局を分析します。戦局を正しく見切れれば、負けることはありません。負けそうなら戦わないのです。つまり「彼を知り己れを知れば、百戦して殆うからず」ということです。

どんなに戦局を正しく分析できても、必ず勝てるわけではありません。負けることはなくても勝てるとは限らないのです。それだけ勝利を得るのは難しいことです。「彼を知り…」という言葉は、勝つことの難しさも物語っています。

確実に勝利を収めるには戦力を集中しなければなりません。持ち駒が無数にあるなら戦力を分散させられますが、持ち駒は常に有限です。戦力を集中して、十をもって一を攻めれば、勝ちやすいのは当然です。いわゆる選択と集中というやつです。

戦力を集中させるためには、陣形を柔軟に変えられる必要があります。陣形の極みは無形です。硬直化した組織では戦力を動かせません。常に組織を変えていくこと、これが戦力を集中させるコツです。

無形が望ましいということは個人にも当てはまります。常に自分を変化させること、これが自分を強くするためのコツです。一つのことを続けていくことも重要ではありますが、それでは時代に取り残される可能性があります。「転がる石に苔はつかない」という言葉は2つの意味に解釈されますが、孫子の兵法では「転がり続けて、常に自分を新しくする」ことを良しとしています。

以上が私なりの孫子の兵法の解釈です。もちろん、ここに書いたことは孫子の兵法の一部に過ぎません。興味を持った方は孫子の兵法を読んでください。


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参考文献 : 「孫子の兵法」 守屋洋著 三笠書房 知的生き方文庫

原発どうするんやろ (2011/04/24)


2011/4/24に書いたコラムです。

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今回の話は、何も調べずに書いているので、間違っているかもしれません。悪しからず。

2011/3/11の地震発生以降、福島第1原子力発電所の原子炉が制御不能の状態に陥っています。
原子力発電は、発熱する燃料棒を使って蒸気を作り、その蒸気がタービンを回すことで電気を発生させています。やっかいなのは燃料棒に放射能があるということです。ちなみに放射能とは放射線を出す能力のことです。放射線とはアルファ線、ベータ線、ガンマ線といったやつで、被爆するとがんになったりします。

私が気になっているのは、どういう状態で収束するかです。参考になるのがチェルノブイリですが、こいつはコンクリートの壁で囲って放射線が外部に出ないようにしています。この方法だと、老朽化したときに補修が必要です。でも補修しようとしても被爆の危険があるため簡単にはできません。実際のチェルノブイリの状況を見ても、福島でこの方法をとるのはお勧めできません。

ではどのような状況になるのが良いのでしょうか?
私は最終的には次の2つのようになると思っています。
(1)原発から5~10kmは立ち入り禁止。行政の管理下。それより外では普通の生活ができる。
(2)原発の冷却作業、壁の補修作業などは一切なし。

本当は立ち入り禁止区域は作らないのが望ましいのですが、すでに放射性物質が外部に漏れている以上、原発に近寄らないようにするのは仕方ないでしょう。50年後、「ここより先立ち入り禁止」と書かれたフェンスで寸断された道路があると思うと心が痛みます。人類が地球を汚染しているということを実感します。

難しい問題は(2)の方です。冷却も補修もしないですむようにするにはどうすればよいでしょうか? 燃料棒は放って置いても勝手に発熱します。ということは燃料棒を取り除かなければなりません。原発だって燃料棒を交換する仕組みはあるはずですが、これが機能するなら、早急に燃料棒を取り出してしまうべきです。ただ、どうやら燃料棒も破損しているらしいので、通常の方法では燃料棒は取り出せないかもしれません。この場合はロボットでも使って取り出すしかありません。そんなことできるのかよ? ていう感じです。

最近のニュースはどこどこで放射線が何とかマイクロシーベルトになったとかばっかりですが、そんなのどうでもいいです。どうでもよくはないんですが、一時的な問題でしかありません。しかも屋内にいれば、大量に被爆する可能性はまずないはずです。私が心配なのはどういう収束をみるのかということです。たぶん東電ではそういう議論がされているはずです。そちらの方が気になります。

50年後、人気のない道路の立ち入り禁止のフェンス、そんな映画みたいな光景を思うと本当に心が痛みます。今の子供たち、未来の方々、本当に申し訳ないです。

笑顔の作り方 (2011/06/26)


私事ですが、文章を書く練習をしようと思い、2011年に1年間毎週コラムを書いていました。せっかく書いたのでいくつか抜粋して、Bloggerにアップロードしようと思っています。このコラムは2011/6/26に書いたものです。

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 今回は私が就職活動中にどこかの本で見つけた笑顔の作り方についての話です。これをマスターすると、笑ってごまかすプロになれます。私も鏡に向かって練習しました。

 やり方は簡単です。目で笑いましょう。笑顔の基本は目です。眉間にしわを寄せるのを逆にする感じです。やさしい目を作ると自然に口元も緩んで笑顔になります。人は表情に対してすごく敏感なので、目元の微妙な変化だけでも笑顔に見えてしまうみたいです。

 アイドルのポスターとかで、口元を不自然にゆがめた笑顔がたまにありますが、それでは力んでいる感じがします。歯を見せてにっこり笑うのも悪いとは言いませんが、力の抜けた自然な笑顔の方がいいと思います。

 笑顔はコミュニケーションの基本です。しかめっ面の人に話しかけるのは大変ですが、にこやかな人に話しかけるのは簡単です。こちらがにこやかな表情を作ると、相手も警戒心を解いてくれます。

 なんとなくですが、最近、こわい顔している人が多い気がします。パソコンや携帯電話に向かって集中しているとこわい顔になりがちです。そのまま顔が固まってしまったかのような人が結構いると思います。別に怒っているわけではないのだから、ちょっと表情筋を働かして、笑顔を作ってみるのはどうでしょうか?
笑う門には福来る、きっといいことあります。

景気回復のために


相変わらず不景気です。私見ですが、1990年代の失われた10年から今までずっと不景気続きな気がします。ということは、今年成人する方々は生まれてからずっと不景気だったことになります。バブル世代と比べるとすごくかわいそうです。

衆議院選挙も近いので、どうすれば景気が回復するか、いろいろと議論されています。私は専門家ではないので、難しいことは分かりません。分かるのは、自民党の日銀に金融緩和を強制する政策は問題外ということくらいです。

私は分かりやすいことを好みます (物理屋さんの宿命です)。そこで私なりに分かりやすい経済政策を考えてみました。

私が考える政策は以下の2つです。
(1)古いものを使用禁止にして、廃棄を義務付ける
(2)廃棄されたものを処理する産業を奨励する

現在、製造業は絶不調です。理由は作っても売れないからです。需要不足で供給過剰だからです。家電にしろ自動車にしろ古いものの廃棄が義務付けられるとどうなるでしょう? 捨てたら新しいものが必要になるので、当然需要が生まれます。

もちろんなんでもかんでも捨てろとまでは言いません。古い建築物の廃棄を義務付けたら、法隆寺まで壊すことになっちゃいます。アンティーク品の廃棄を義務付けたらおもちゃの博物館の北原館長が泣きます。範囲は適当に法律で決める必要があります。

ものが廃棄されればゴミが出ます。日本をゴミ屋敷にするわけにはいかないので、適切な処理が必要です。持続可能な成長のところで書いたように、作ったものを壊すのは持続可能であるための必須条件です。これまでゴミを処理する産業はあまり日の目を見ていない気がしますが、これからは製造業と同じだけの比重で考える必要があると思います。新しい産業が成長することは景気回復につながるはずです。

では、実際にこんな政策を行ったらどうなるでしょうか?

おそらく不法投棄が増えるでしょう。またゴミの処理に誰がお金を払うかが問題になります。残念ながら、税金を投入せざるを得ないと思います。ものを捨てるためにお金を払うという感覚は、まだあまり一般的でないと思われます。でも将来は、物を買うのにお金を払うのと同じように、物を捨てるのにもお金を払うのが当然になってくると思います。


以上が私が妄想している景気対策です。もちろん自分の意見が絶対だとは思っていません。あくまで一つの意見として見てもらえれば幸いです。

持続可能な成長


最近、不景気なせいか、経済ネタを考えることが多いです。というわけで、また経済のお話。

規模の増加を追求する経済には限界があります。そこで出てくるのが持続可能な成長というやつです。英語で言うと"Sustainable Development"です。

持続可能な成長という言葉は、20年以上前から使われています。"国連の環境サミット"、"リオ宣言"などは私が小学生のころに勉強しました。言葉は以前から登場しているのですが、その中身は具体性に欠けます。持続可能な成長のために何が必要なのか?、少なくとも私は明確な回答を見たことがありません。そこで私が思っている具体的な話を1つ書きたいと思います。

私が考えていることは単純です。持続可能な成長のためには、作った分だけ壊さないといけません。作りっぱなしでは物があふれてしまいます。

戦後、日本の製造業は大きな成長を遂げました。自動車、家電、インフラなど、あらゆるところで、多くの製品を作り出してきました。それに対して、それらを壊すという産業はそれほど成長していないと思います。

作ったものをきちんと壊すということは持続可能であるためには必須です。これからはそういう産業を育てないといけない気がします。

なお、私はヒンズー教のシヴァ神を信仰しているわけではありません (^o^)。

限りある資源


前回の「規模の経済」のおまけです。

マルサスの「人口論」またはローマクラブの「成長の限界」というものを聞いたことがあるでしょうか? どちらも "資源は有限なので、人口の増加には限界がある" という内容です。

地球上の資源は有限である以上、地球上に住める人間の数には限りがあります。だから人類はコロニーを作って宇宙世紀が始まったのです。なんちゃって。

前回書いたように、規模の増加は見かけの成長になりますが、資源が有限である以上、規模の増加には限界があります。私が規模の増加による成長を本質的でない思う理由がこれです。規模の増加はいつか破たんします。

もちろん、この議論は乱暴です。状況を簡単化しすぎています。物事を単純化しすぎるのは私の悪いクセです。

規模の経済

従業員100人の会社があったとします。1人当たり価値 "1" を作るとすると、その会社は "100" の価値を作り出します。

会社の規模が1000人になったとします。今度は "1000" の価値を作り出すことになります。生産量は10倍です。

これは成長と言えるのでしょうか?

会計的には規模の拡大は利益アップということになるのでしょう(ただし人件費の増加などは無視しています。)。 いくつかの企業ではこのように規模を大きくすることで利益を増やしているように思います。「上場から5年で売り上げが10倍になりました」みたいな感じで。

私は規模の拡大は本質的な進歩ではないと思っています。規模の拡大を否定する気はありませんが、それはイノベーション(技術革新)ではありません。会社の規模が大きくなっても、それは"技術的な成長"や"新しい付加価値の創造"とは別のものです。

近頃はエネルギー問題がいろいろと議論されていますが、その解決には技術革新が不可欠です。そしてその技術革新は規模の拡大とは関係ないものです。企業が利益アップのために規模の拡大を狙うことを否定はしませんが、社会の進歩のために技術革新を狙うことも重要なのだと私は思っています。